ビジネス・仕事

あの人は「ギフト」か「災厄」か?恩田陸「蜜蜂と遠雷」より「評価」について学ぶ

こんにちは、プラズマコイです。

今回は、職場や集まりなどで、困ったちゃんのあの人は、災厄(問題児)なのか、停滞している今を打開してくれる神様からのギフトなのかという良し悪しは、自分たち次第ですという話をしたいとおもいます。
また、そこから深掘りして、「評価」はどのようにすると良いのかについて考えていきます。

結論:ギフトにするも災厄にするも、自分たち次第

「蜜蜂と遠雷」はピアノのコンクールを舞台にした物語で、天才達を主人公にした物語はそれ自体が素晴らしいです。

そのなかで、1人の天才少年が審査員の中に大きな葛藤や示唆を与えます。

それは、音楽というのはもっと自由で良いのかどうか?

既存の音楽業界の風潮に一石を投じるような投げかけだったのです。

その天才の演奏は、音楽に対する、ギフトか?災厄か?

そして、その一人の天才少年の師匠である有名な音楽家は
彼にある思いを託したのでした「音楽を開放してあげてほしい」

音楽というものは、型があり、ある程度その中で評価が行われます。逆に、型をはみ出すと、審査員が評価をできません。

これは前に書評した「天才を殺す凡人」の構造と同じです。

つまり天才的で素晴らしいとされるものでも、既存のルールの枠外であれば評価ができないのです。評価が出来ないということはこの場合、GoodではなくBadになるということです。

評価というのは、あくまで評価者が被評価者より上位に立っていないといけません。

それは同じ道の上で、評価者が先にいる状態ということです。

仕事も組織も同じ用なもの

僕はこの「音楽」を「ビジネス」と変換しても、そのまま当てはまるなと思いました。

本書では、非常にきらびやかな音楽という芸術世界で、天才たちによる美しい物語が紡がれているため、素直に問題の本質について考える事ができました。

そういう意味でも本書の素晴らしさは抜きん出ていますね。

仕事や組織という言葉を使うと一気に俗っぽくなってしまいますすが(笑)サラリーマンの世界にも構造としては似たようなものがあります。

評価のジレンマ

ここで組織の評価制度として、現代は非常に難しい時代だということについて触れたいと思います。

個人ごとの評価をしなければならない

企業全体で総合評価な部分はあるにしろ(ボーナスで調整)
個人ごとに、業績の貢献度への点数をつける必要があります。

そうすることにより、期待されている業務を実施できたかを判断し、より生産性を向上させていく事が重要だからですね。

人類は、この評価というものにずっと苦しめられています。

数字で表せないと評価ができない

自分がやったことが無いことや、答えが無いことは、本来評価ができません。いつ何時も、今の状況はオリジナルだからです。

そのため、売上や営業成績など、なんとか数字で表して評価をするのですが、営業職でも無い限り、個人の成果を簡単に正確に評価できる指標が無いことも多いので、多くの職種は、テキトーに評価をされていることも予想されます。

減らすことは評価されにくい場合も

例えば仕入れ原価を10万円から5万円にコストカットをしたとしても、
それはその人だから出来たのか?という問いもありますし、無理に買い叩いていないか?という問いもでますね。

また、もっと評価が難しい”減らす”行為は、会議や、承認フローといった「合意」に関する部分ですね。

これは減らしたら問題になる事が多かったです(^^;)
前に個人ごとの業務の内訳をみたら、7割くらい会議という人がいて、少し異常だなと思いました。

上司は部下から評価されてはならないという風習

今でも多くの企業で、後輩は先輩を評価しずらいのではないでしょうか?

360度評価というものもありますが、それをしても、その結果を上手く業務に活かすのもまた苦労で、結果が変わらないのを知った部下は、無関心になったり、言い続けているのに変わらない現状に不満を持ったり見切りをつけてしまうかもしれません。

常に自分の評価は、自分する

そうなると、他人に自分の仕事をどこまで評価できるのか?ということを、逆も然りで思い知ります。

評価は時により、したり、されたりすると思います。

そこで一喜一憂はするとは思いますが、何より、自分で自分の仕事や人生を評価し、これを出来たので少なくとも自分では満足している、満足していなければそこに向けて行動する。

そういった評価軸を持っておく事が一つの解決になるかなともいました。

今回は以上です。ありがとうございました。

天才という人種は新しい事をする故にいつでも風にさらされますね

関連記事はこちら